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ペルー人としての誇りを胸に日本でキャリアを切り拓く

glolabのコーディネータとして外国ルーツの子どもたちの支援に取り組む上村カルロス。9歳の時に両親が離婚し、ペルーのリマで母親と暮らしていましたが、経済的な理由や将来への不安から中学2年生の時に来日、そのまま父親の元で暮らしながら、日本の高校を卒業したという経歴の持ち主です。

高校卒業後は工場勤務やホテルのウェイターなどの職を経て、中南米専門の旅行会社に入社。日本に住むペルー人としての個性を活かして働く傍らテレビ番組にも出演するなど、活躍の幅を広げています。カルロスがいかに自らの価値を見出し、キャリアへと繋げていったのか。そのベースとなった考え方や今後の活動について話を聞きました。


周囲に頼れなかった中学、高校時代

― カルロスさんが中学2年生で来日したときは観光ビザで3カ月滞在の予定だったそうですが、滞在を延長して日本の学校に通うことにした理由は何ですか?
経済的な理由が大きいです。両親が離婚して母親と一緒にペルーに住んでいたのですが、日本にいる父は普段から仕送りも養育費も送ってくれませんでした。だから、ペルーに帰ってまた生活するより、そのまま父親のところにいたほうが母親に負担を掛けずに済むと思ったんです。

― それまで離れていたお父さんのところに住むことに関して抵抗はなかったですか?
目的がお金を出してもらって大学まで進学することで、それ以外は父親に何も求めていなかったので大丈夫でした。

― お父さんは日本でどんな仕事をしていたのですか?
千葉県で自動車関係の工場に勤めていました。日本語も日本の制度や慣習にも詳しくない人だったので、お金以外の部分では全く頼りませんでした。

― 13歳で日本の中学校に入って言葉の問題は当然大変だったと思いますが、その他に苦労したことはありますか?
自分が外国人であることに対する苛めはありましたね。特に外国人が少ない地域だったので、みんなが私のことを見に来たり、冷やかしに来たりして、こんなに目立ってしまうんだという思いはありました。思春期だったので、目立つことに対する不安は強かったです。

― その学校では外国ルーツの子どもを受け入れるのはカルロスさんが初めてだったのですか?
はい。高校進学を決めるときには、まったくシステムを知らずに先生に言われるがままに進路を決めた感じなので、今から考えるともっと詳細に方法を調べたり他の学校も選択肢に入れたりできたかなと思います。成績が悪いのは日本語が分からないからであって、決して勉強ができないわけではなかったのですが、そうした事情を抱えた日本語を母語としない子どものための制度が当時はありませんでした。

― 日本語力が上がるにつれ、学校の成績も上がっていったのでしょうか?
中学3年生の時は数学と英語頼りでしたね。それ以外は全く意味を理解せずに試験などで回答していました。こんな雰囲気の質問だから答えはこれかな?みたいな感じで。もともと勉強は好きなほうなので、読み書きの力は高校に入ってから一気に上がりました。

― 勉強や生活面の悩みなど、相談できる相手はいましたか?
いなかったです。父親とはほとんど口もきかない感じでしたし、兄や親戚もいましたが、誰も学校に通った経験がある人がいなくて、みんな仕事もあって忙しかった。日本人に対しても何を相談するべきか分かりませんでした。

― 支援団体のようなところにも行かなかったのでしょうか?
支援団体があることも知らなかったですし、唯一、市民会館で開かれていた無料の日本語教室に通っていましたが、そこに来ていたのは工場で働いていて、ひらがなやカタカナなど基本的な日本語を勉強する外国人労働者でした。

私はもう少し上のレベルだったので、学校のテストに使える言葉を勉強する必要があったのですが、ボランティアのおじいちゃんやおばあちゃんには教えてもらえなかったんです。ただ、そこで大学生の人を紹介してもらって、個人的に日本語を教えてもらったりはしました。

日本にいる外国にルーツを持つ人々を財産と捉えてほしい

― 現在は旅行会社に勤務されているそうですが、将来のキャリアに関して学生のころからイメージはあったのでしょうか?
小学生のころから弁護士になりたいという夢があったんです。そして外国語を勉強して外交官になりたいと思っていました。外交官になるためには何かしらの資格を取っておく必要があって、弁護士として国際的な法律を勉強した上でなれたらいいなと。

小学生当時の国連事務総長が、ハピエル・ペレス・デ・クエヤルさんというペルー人だったんです。湾岸戦争など重要な国際ニュースの際にペルー人が出てきて、世界平和のために働いているのを見ながら、誇りに思っていました。それで私も憧れていました。

― 日本に来ることになって人生が大きく変化したわけですが、今でもそうした夢は持っていますか?
具体的に何か動いているわけではないですが、まだ諦めてはいないです。いつかなれたら良いとは思っています。

― いずれにせよ、国際交流やコミュニケーションの分野に興味があったわけですよね?
子どものときは単に世界で活躍したいと思っていましたが、日本に来てから、日本に住むペルー人という立場でペルーにいてはできないこと、または、日本人ではできないことをやりたいと思ったんですよね。日本に住む外国人として、架け橋的な仕事に興味を持つようになりました。

単なる「お荷物外国人」や「困っている外国人」ではなく、外国人が来て日本のためになっている、あるいは外国に住むペルー人が母国のために働いているという立ち位置に就きたいなと。

― それは、支援する組織がないとか相談できる人が周りにいないという学生時代の経験が影響しているのでしょうか?
そうですね。日本では外国にルーツを持つ人のことを助けてあげる対象と思われがちですが、日本に外国にルーツを持つ人がいることを財産と捉えてほしい。日本が進化するために必要な存在だと、社会全体でもっと感じてもらいたいという思いがあります。

支援活動にもっとインパクトを与えたい

― glolabの活動に関わるようになった経緯を教えてください。
昔からJICAなどの交流会やセミナーにちょこちょこ行っていたのですが、10年ほど前に通っていた社会起業大学のつながりで、外国ルーツの子どもたちを支援する団体のボランティアに行ったんです。自分と同じような境遇の子どもたちと接して、「やっぱり大変だなあ」と思ったのと同時に、もっとインパクトのある活動ができないかとも思いました。

もちろん何もしないよりは良いのですが、子どもと1対1で2時間勉強を教えて、正直なところ、これだけでは沢山の子どもたちを救えないなと。ボランティアに参加する人たちは限られているし、社会全体で取り組まないと限界があると感じました。そうした活動を通じてglolabの人とも知り合い、参画するようになりました。

― 動画も公開する予定だそうですが、それももっと社会にインパクトを与える活動を展開したいという動機でしょうか。
社会起業大学に通っていたのも、そもそも社会を良くするためのソーシャルビジネスを学びたかったからです。そこで指導を受けて5年ほど前にNPOを立ち上げたんです。

ただ、言い訳にはなってしまうのですが、自分の仕事が忙しくなったり、妻が妊娠したり、母国の母親のことだったり、いろいろと忙しくなってしまって、何も人の役には立てていなかったんです。そのまま何もできないでいるよりは、人が取り組んでいる活動に合流したほうが良いと思うようになりました。いずれ、自分の子どもたちが大きくなったら彼らのためにもなるようなことをやりたいと考えています。

やはり、今必要なのはお金というよりはインパクトの部分です。私たちの活動によって救われる人がどれだけいて、日本社会で活躍できる人がどれだけ出てくるのかというところが重要ですね。

― 外国ルーツの子どもたちを支援する目的は、もちろん彼らの存在や置かれた環境を広く知ってもらうということがあるかと思いますが、彼らのアドバイザー的な立場になることも考えていますか?
そうですね。どうやったら外国ルーツの子どもたちが「日本で活躍できる」と思ってもらえるかが大事です。彼らの多くは、自分たちの夢を日本でえられると思っていない気がします。私の周りには夢を語ってくれる若者もいますが、まだ叶えられるずに職場を転々としながら働き続けているといった話もたくさん聞いていて、社会から置き去りにされているように見えます。

― カルロスさんから見て、外国ルーツの子供たちは自分たちの可能性に気づいてないケースが多いでしょうか?
そうですね。劣等感みたいなものはあると思います。外国ルーツの子供たちが住んでいる環境次第ですが、身近にいる大人たちも外国人労働者として、苦境の中で暮らしている場合が多いので、自分たちがいろんな言語が喋れて、グローバルな企業でも働けるといったイメージを抱きにくいのだと思います。しかし、良い学校に行けて良い就職先を見つけている人の話も沢山聞くので、可能性は大いにあると感じています。

私以外にも2か国語、3か国語ができて、グローバルに活躍している外国ルーツの人たちもたくさん知っています。私としては、多様なキャリアを選択した人がもっと表に出て、経験を子どもたちに伝えていただけたらと思っています。

― 表に出ると言えば、カルロスさんはテレビにも出ていますが、そうした活動も積極的にやっていく考えですか?
オファーがあれば何でも出ます(笑)。ただ、テレビに出る目的はペルーの話をすることですから、それ以外はあんまりやってませんが。

日本にいるペルー人としての誇り

― 日本に来て良かったことは何でしょうか?
ペルー人であることに感謝しました。

― それは、希少価値のある人材になれたという理由からでしょうか?
最初は目立つことが嫌でしたが、ペルー人だからこそ日本社会で活かせることがあります。ペルーにいたらただのペルー人ですが、日本にいることでプラスに変えられることが多くあります。それが良かったし、誇りに思うことでもあります。ペルー人としてのアイデンティティは以前より強くなったと思います。

― 日本とペルーの違いはいろいろあるとは思いますが、カルロスさんの中で共存させることが難しいと感じる違いもあるのでしょうか?
「適当さ、大雑把さ」ですかね(笑)。私がつくったNPOはアミーゴプロジェクトといいます。アミーゴは直訳すると「友達」ですが、日本のように学生時代の同級生、職場の同僚、ただの知人などと分けて考えずに、それらを全部含むんです。たとえば、ペルーでは電車やバスの列にたまたま並んだ人にも「アミーゴ、今何時なの?」と話しかけるなど、他人との間にあまり壁を作りません。でも、日本ではなかなかそういうことができなくて、適当に人と付き合えない。人間関係に関しても、非常に真面目なところが大きな違いではないでしょうか。

― 日本がもう少しペルー的な要素を取り入れたら、外国ルーツの子どもたちももう少し気楽に過ごせるのかもしれないですね。
日本では他人への一言一言に気を付けないといけないから、気を遣いますね。私は結構変なことも言ってしまうほうだから、いまだにそこでストレスを感じたりもします。私の子どもは小学生ですが、先生の言うことと私の言うことが違って戸惑うこともあるようです。外国ルーツの子どもたちには、家庭と学校での文化の違いという問題もありますね。

― 最後に、外国ルーツの子どもたちにメッセージをお願いします。
日本に限らず社会には「目標を必ず達成しなければいけない」という雰囲気があります。だから学校でも職場でも達成できるような目標を掲げるよう促されるのですが、少しでも可能性があるなら、たとえば期限を決めなくても、本当に自分のやりたいことを諦めないでほしいと思うんです。10年後でも20年後でも30年後でも構わないので、本当の自分の心に従って、目標を持ってほしい。

そして、目標はちょこちょこ変えても大丈夫です。私は中学校を卒業したときは、ペルーの高校や大学に入って、中途半端な日本語でも日本企業にでも入れたらとも思いましたが、結局日本の高校に入ってもっと日本語ができるようになって、今は旅行会社の企画コーディネーターをやってます。きちんとした目標はなかったですが、2年後、3年後の目標を変更しながらやっています。これは勉強にも言えることで、しっかり目標を持ちながらも、気持ちの余裕を持って前に進んでほしいと思います。

吉田浩 取材・執筆