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何でも挑戦していけば、やりたいことも居場所も、必ず見つかる

言葉も文化も違う異国で生活するのは大変なことです。柔軟性に富む子どもたちでさえ、外国で暮らし始めた時期や環境によっては「何もできない」と絶望感を抱いてしまうことがあります。フィリピンから日本に来たケイシリンさんもそんな経験をした一人。それでも一つひとつ、目の前の課題をクリアしていくことで、進学、就職の壁を乗り越え、道を切り拓いてきたエピソードを今回は紹介します。


日本語が理解できず孤独な日々を過ごす

ケイシリンさんはフィリピン人の両親の下に生まれ、物心つく前に父親を亡くした。フィリピンから来日して、先に葛西(東京都)で暮らしていた母親の下に弟と渡ったのが小学2年生の頃。それから2年間日本で生活していったんは帰国したが、中学1年生のころに母親に再び呼び戻されて以来、ずっと日本で暮らしてきた。

 小学生時代の初回の来日は「すごく良い経験だった」と、本人は振り返る。日本語はほとんど理解できなかったが、学校で多くの友人ができ、先生も常に気にかけてくれたという。

 異国での生活の壁に、本当の意味で直面したのは、2度目の来日以降だ。日本に3カ月間だけ遊びに来るよう母親に誘われ、本人もすぐに帰国するつもりだったが、結局そのまま住み続けることになった。ホームシックにかかり、中学校には馴染めず、友達もできなかった。いじめの標的にされたこともあって「中学2年生くらいの時、本気で自殺を考えた」と語る。

 日本語の勉強は放課後などに続けていたが、なかなか上達せず、学校の授業についていけないことが本当に辛かったという。そうこうしているうちに受験シーズンを迎え、教師からは「このままでは高校に行けない可能性が高い」と通告された。

 進学に関して、母親から強いプレッシャーがあったわけではない。むしろ、子どもの意思に任せるような態度だったというが、真面目な性格のケイシリンさんは焦っていた。

「学校に行けないとなると、フィリピン社会ではすごく下に見られてしまうんです。だから親をがっかりさせたくなくて毎日悩んでいました」



転機となったフリースクールへの参加

 そんなどん底の時期にフェイスブックを通じて知ったのが、外国ルーツの子どもたちを支援するNPO法人多文化共生センター東京が運営する「たぶんかフリースクール 」だった。とにかく居場所と安心感が欲しかった。同じく日本語の習得や進路について悩む外国ルーツの子どもたちが集う同スクールで、日本語や受験に向けて他の科目の勉強を始めることになった。これがケイシリンさんにとって大きな転機となった。

 「たぶんかフリースクールに通ったことは凄く良かったです。中学校や日本語学校とはすごく違う環境で、私1人だけじゃなくて周りにも置かれた環境が共通している友達が多かった。親が日本で仕事していたり、日本語が分からなかったりして悩んでいるのは私だけじゃないんだって思いました。先生たちも外国ルーツの子たちへの日本語や他の科目の教え方がとっても上手だったし、異文化理解についてもよく分かっていました。最終的に高校に受かったのも、そのおかげだと思います」

 進学や就職について具体的な将来像が見えていたわけではない、とケイシリンさんは語る。正直なところ「フィリピンに帰りたい」という気持ちしか当時はなかったという。ただ、フリースクールで周りの友人たちが一生懸命に勉強を頑張る姿を見て、とにかく高校に入って、その先はまた後で決めようと考えるようになった。

 「悩みすぎると日本語の勉強にも集中できなくなる気がしたので、ステップ・バイ・ステップで行こうと思ったんです」



自分を表現できるようになった高校時代

 努力の甲斐あって学校の成績も向上し、自分と同じ外国ルーツの生徒が多数学ぶ田柄高校(東京都練馬区)の外国文化コースに無事入学を果たしたケイシリンさん。フィリピン、ブラジル、中国、英国など、さまざまなルーツを持つ友人たちに囲まれて、中学校時代とはガラリと状況が変わった。

 自分を表現できる環境になったことで、学校生活に対するモチベーションが大きく上がった。ダンス部にも所属し、充実した高校生活を送ることができたと振り返る。学校以外の場所でも、積極的に活動するようになった。日本語の習得も兼ねて、コンビニエンスストアやファストフード店など、さまざまな職場でアルバイトを経験した。「学びながらお金がもらえる」という点が、非常に魅力的だったという。

 ただ、それでも日本語には相変わらず苦労していた。そのことが理由で、高校3年生となって次の進路を決めなければならない時期が来ても考えられる選択肢は決して多くなかった。

 「学校では英語でずっと勉強していて、日本語はネイティブとはほど遠いレベルだったので、英語の先生にしかなれないと思っていたんですね。それでずっと悩んでいました。そんな時に友達のお父さんで日本人の方とお話しする機会があって、日本では大学を卒業することがとても大事だということを教えてくれたんです。そこで、英語学科がある獨協大学を目指すことになりました。中学校を卒業したときと同じく、それから先は後で考えようと思いました」



日本語での営業にもチャレンジしてキャリアアップ

 外国ルーツの子どもたちの中でも、進路やキャリアに関してはさまざまな考え方がある。早くから将来像を描いて努力する人、出自を個性と捉えて武器にしようとする人、とにかく自分に合う仕事をいろいろと試して道を決める人など、取り組み方はそれぞれ異なっている。

 ここまで紹介してきた通り、ケイシリンさんの場合はとにかく目の前の課題を1つずつ解決することに集中して、ステップ・バイ・ステップで進む姿勢でやってきた。できることが限られていても、今ある選択肢の中から最適な道を考えて実行する。その姿勢を以後も継続していくことになる。

 進路については依然として迷っていた。大学卒業を目前にして就職活動を始める時期になっても、自分が何になりたいのかはっきり分からなかったという。高校卒業の時と同様に英語の教師になる道も考えたが、以前と比べて新たなことに挑戦する気持ちが芽生えていた。

 「今までせっかく日本に住んできて、アルバイトもして日本語の勉強もしたので、もっと日本語を勉強しながら仕事をしたいと考えました。そこで、まずはA社という外国人の生活支援を行う会社でアルバイトとして働くことにしました」

 担当した仕事は外国人向けの賃貸保証業務だ。日本では特に、外国人の入居希望者に対する不動産オーナーの査定が厳しく、保証人を探すのにも苦労するケースが多い。そこでA社が会社として保証人になると共に、居住に関するトラブルの対応に当たる。ケイシリンさんの役割は、それらの場面で通訳者として関係者の意思疎通を円滑にすることだった。ほどなく仕事ぶりが認められ、アルバイトから正社員へと昇格することになった。

 正社員になってしばらくはビザ申請書類の作成など事務作業に従事していたが、今度は営業担当として人と会う仕事がしたいという気持ちが芽生えた。書類と格闘するのが苦手なのもあったが、「日本語を使った営業に挑戦したい」という気持ちが大きかったのだという。

 会社は外国人人材を企業や高齢者向け施設に紹介する業務も手掛けていたため、役職の高い担当者と交渉する機会も多かった。敬語の使い方などがまだ完璧でなく、日本特有のビジネスマナーもよく知らないケイシリンさんにとっては、難易度が高い仕事だ。

「不安でしたが、恥ずかしい気持ちを抑え込んで、自分のことを日本人だと思い込んでやるようにしました。正直失敗もありましたが、その都度反省して日本語やビジネスマナーの勉強に取り組んでいました」

 実際に営業を経験してみると、懸念していた外国人に対する差別もなく、「日本語ができれば何も問題ない」と実感したという。こうした感覚は、やってみなければ得られなかったことだろう。

 最初の就職から2年後の現在、ケイシリンさんは次のステップとして外資系の人材コンサルタント企業に転職を果たしている。営業職を経験したことで、難易度が高くともより好条件な外資系企業に挑戦する自信が付いたとのことだ。「フィリピンに住む親族にはずっと仕送りを続けているので、今後は少し余裕ができると思います」と、笑顔を見せる。



やりたいこと、居場所は必ず見つかる

 日本に来てからのことを振り返り、インタビュー中に涙ぐむシーンもあったケイシリンさん。積み上げてきたことが今でこそ実になっているが、外国ルーツの子どもたちには自分が経験してきた辛さを味わってほしくないという気持ちを抱いている。今後の活動についてこんな思いを語ってくれた。

 「日本にも外国籍の人がこれからどんどん増えると思いますが、まだ学校などでのいじめも多いので、それをなくすためにコミュニティを作りたいです」

 進路選択やキャリア構築についてはこうアドバイスする。

 「もし、諦めたい気持ちになっても違う方法を見つけてほしいです。今は選択肢が少ししかなくても、5年後10年後には必ず増えていきます。アルバイトでも日本語の勉強でも友達作りでも、何でも挑戦していけば必ずやりたいことも居場所も見つかると思います。今いるコミュニティだけでなく、外からのアドバイスを聞いて行動することも大事です」

 ケイシリンさんが暗闇から抜け出せた要因は、人生の節目でそれまでとは違うコミュニティと出会って居場所と安心感を得たこと、周囲の人たちの助言を無駄にせず積極的に取り入れたこと、そして何より少しずつでも着実に歩みを進める姿勢を崩さなかったことだ。

 おそらく中学生の頃は、10年後に外資系企業でキャリアを積んでいる自分の姿は想像していなかっただろう。それでも、目の前のことに懸命に取り組んでいけば道は拓けるということを、ケイシリンさんの人生が証明している。



吉田浩 取材・執筆