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電車で30分も行けば別世界がある。好奇心を持って新たなチャレンジを。

自分では気付かない才能を周囲が発見することによって人生は時に好転します。

朝日新聞GLOBE+Breakthrough 突破する力で紹介され、自身の経験を活かしながら、ビジネスパーソンとして在留外国人を支援するさまざまな取り組みを手掛けたカブレホス・セサルさん。一度は地方都市に身を埋める覚悟をしたセサルさんの人生を変えたのは、周囲の後押しと本人のたゆまぬ好奇心でした。

 

孤独から抜け出すために日本語を学ぶ

 

「最初は通訳を職業にするという発想すらなかったですね」

そう話すセサルさんがペルーから来日したのは1990年、11歳の頃だった。

当時のペルーは年率7500%ものハイパーインフレに見舞われるなど、壊滅的な経済状況にあった。さらに極左テロ組織のセンデロ・ルミノソが勢力を拡大し、治安も激しく悪化。ちょうどその頃、日本では入管法の改正によって、日系人二世、三世の労働者に受け入れ門戸が開かれることになった。こうした両国の事情を背景に、日系人の母を持つセサルさんは、両親や親戚たち20人と共に日本に渡ることになった。

 細かい事情はずっと後になって理解したものの、年端のいかぬ少年にとって突然始まった異国での生活はやはり苦労の連続だった。中でもショックだったのは、本来なら中学校に入学できる年齢であったにもかかわらず、日本語ができないため小学校6年生に編入させられたことだという。

「ペルーでは勉強できない子には小学校から留年制度があるのですが、日本で一学年下げさせられたことが精神的に一番応えました。確かに言葉ができなければ学習は大変ですが、精神的ダメージのほうが大きかったです。中学校に入ったら、1学年上の同じ年齢の子に敬語を使わなければいけない状況になりますからね。この問題は今でも教育関係者には訴えています」

入学した埼玉県朝霞市の小学校の道向かいには本来通うはずだった中学校があり、それを眺めては複雑な気持ちになったという。クラスでは好奇心から話しかけてくれる同級生はいたものの、言葉ができず文化も分からないためすぐに友達はできなかった。その一方、孤独から抜け出したいというプレッシャーが、日本語の上達を早めることになった。

そんなセサルさんだが、中学生になって以降はたびたび通訳として駆り出されることになる。きっかけは当時まだ幼児だった弟の交通事故だ。まだ片言の日本語だったが、医者とのやり取りを何とかこなした。その後、親戚たちなどから事あるごとに呼び出され、通訳を頼まれるようになったという。

「親戚の子たちの中で私が一番年上だったし、社会で使う用語や敬語を一番早く覚えたんです。そのうち親戚の知り合いや、知らない人たちからも声が掛かるようになりました。やはり病院に行くときなど緊急な場面で通訳を頼まれることが多かったです」

今であれば、緊急事態で子どもに通訳を任せるのは問題ありと見なされるかもしれない。だが、「他に選択肢がない当時は仕方のないことでした」とセサルさんは振り返る。

 

見えない将来への不安

 

その後、両親の仕事の都合で静岡県富士市に引っ越し、地元の工業高校に通うことになった。以前と大きく変わったのは、ペルー人やブラジル人の大きなコミュニティがあったことだ。同じ南米出身で同世代の仲間も増え、生活が楽しくなっていった。後に結婚するソフィアさんともこの頃に知り合っている。


高校時代のサッカーチームとともに

だが、一方で自分の置かれた現実を知ることにもなる。父親の勧めで地元の工場にアルバイトに出かけたときのことだ。工場の外で列をなして仕事が始まるのを待っているのは自分も含めた外国人労働者ばかり。単純作業を担うのは全員外国人で、管理するのは日本人と役割が明確に分かれていた。作業で使うプレス機械はセンサーが壊れていて、一つ間違えば指を挟む大事故につながりかねないようなものだった。

「もしかしたら自分も将来はこういう場所でずっと働くことになるのかなと。先がどうなるのか、全く見えませんでした」

機械いじりと共に高校時代に興味を持ったのがDTPデザインだった。実はペルーで暮らしていた幼少期、日系人向けの私立学校に通っていたセサルさんは、プログラミングの基礎を学ぶなど80年代当時としてはかなり進んだIT教育を受けている。工場のアルバイトでためたお金でパソコンを購入し、卒業後はDTPの専門学校に通うことにした。一時はDTPデザイナーを目指したこともある。

だが、その目標はあっさり捨てることになった。専門学校を卒業した後、複数のデザイン会社に履歴書を送ったが、いずれも書類選考で落選。そのうちの1社に問い合わせたところ、外国人であることが不採用の理由と伝えられた。それが理由であれば自分ではどうすることもできないと考えた。

「本当は外国人であることが理由ではなかったのかもしれませんが、若かったこともありそのまま受け入れてしまったんです。あと、正社員でもDTPデザイナーの給料は安いし、工場のアルバイトのほうが稼げることもあったので、もういいんじゃないかと。いずれにせよ静岡を離れることは考えていなかったですね」

いつかは自分の整備工場を持ちたい――そんな思いを抱きつつも結局アルバイト生活は27歳になるまで続いた。そんなセサルさんの運命を変えたのは、妻・ソフィアさんの後押しだった。

 

人生を変えた妻の後押し

 

「2人目の子どもが生まれたのですが、妻はずっと私が苦労してきたのを見ていていたし、このまま静岡で子育てしても将来の可能性が限られるという意見でした。そこで、東京でプロの通訳としてやってみないかと私に勧めてきたんです」

セサルさんにとって通訳はあくまでもボランティアで、困っている人が居るから助けるという感覚のものだった。職業としてやっていくという発想が全くなかったため、最初は戸惑ったという。それでも、ダメで元々の気持ちで挑戦してみることにした。

「妻が東京で通訳募集の案内を見つけてきて、急いでスーツとコートとバッグを揃えて東京へ面接に向かったのですが、妻の勘違いでその会社が募集していたのはスペイン語ではなく英語の通訳でした(笑)。でも、それ以上恥ずかしい失敗はないだろうということで2社目以降も受けてみました」

次に受けた通訳者派遣を手掛ける企業からは内定をもらったものの、短期雇用の条件だったためやむなく辞退。しかし、セサルさんを気に入った部長が社内の通訳コールセンター事業部に紹介してくれることとなり、そこでの採用が決まった。こうして、通訳としてめでたく東京で新たなスタートを切ることになったのである。

セサルさんオペレーター時代の仕事風景
通訳オペレーターとして働くセサルさん

聞けば、ソフィアさんは日本語の日常会話は問題なくこなせるものの、セサルさんほどの語彙力はないという。自分では語学力の高さを全く意識していなかったが、職業として十分やっていけるレベルであると、最も身近な妻が見抜いていたことが運命を大きく変えた。

その後も転職する際に職場仲間から声が掛かるなど、何かと周囲から気にかけられてきた。現在は、多言語通訳サービスなどを手掛けるランゲージワンという企業で働いている。通訳業務に始まり、コールセンターのスーパーバイザー、さらに営業担当として活躍。通訳関連業務から現在の所属である営業部に移ったきっかけも、素養を見抜いた営業マンからの誘いだった。

「コールセンターのスーパーバイザーとして勤めていた時にいろんな案件の立ち上げを行って、その時に関わった営業部の人に声をかけてもらいました。自分が営業をできるとは思っていなかったのですが、東京に来た時と同じく好奇心はあったので、やってみてダメならやめようと」

すると、営業の仕事は想像以上に楽しく、新たな能力が開花することになった。自治体の消防局と24時間対応の通訳システムを構築したり、医療通訳者の研修を手掛けたり、災害時に利用できる多言語通訳のシステムづくりに取り組んだりとさまざまな挑戦を続けてきた。かつて、緊急事態で通訳を務めてきた自らの経験が、少なからず活きているのは間違いない。

経営陣にも気に入られ、「セサルは面白いからやりたいことがあったらやってほしい」と自由に行動できるポジションを与えられた。現在は多文化共生推進ディレクターの肩書のもと、顧客ニーズを探りながら社会貢献を実現するのがミッションだ。

 

電車で30分行けば違う世界がある

 

外国にルーツを持つ人間であるがゆえの困難や社会制度の不備について身をもって感じてきたからこそ、仕事を通じて解決できることがある。それがセサルさんの今のやりがいでもある。

「小学生でいきなり学年が下がったときのように、自分の意見を聞かれることなくはめられるところがあったので、もう少し当事者の外国人も巻き込みながらルールや法律を作っていくべきだと思っています。私の意見を聞きたいという人が意外と多いことに気付きましたし、橋渡し役として、外国ルーツの人たちの意見をまとめて国に提案していきたいです」

医療従事者向けに講演するセサルさん
医療従事者向けに講演するセサルさん

自身の語学力や営業力を早く自覚していれば、もっとスムーズに道が開けたかもしれないが、さまざまな苦労をしたからこそ今の自分がいるという気持ちがセサルさんにはある。一方で、自分の子どもたちには同じ経験をさせたくないという思いも抱いている。外国ルーツの人たちにとってもっと情報が得やすく暮らしやすい社会であれば、子どもたちの可能性も開けるはず。その環境づくりも、今後の仕事上の重要なテーマになるだろう。

一度は可能性を閉じかけたセサルさんが今、やりがいのある仕事に就けているのは、周囲の引き上げもさることながら、好奇心を持って新たなチャレンジを続けてきたからだ。日本にいる外国にルーツを持つ子どもたちにアドバイスを求めると、こんな答えが返ってきた。

「小さなコミュニティにいるときはそこが世界のすべてだと思いがちです。でも本当は電車に30分も乗れば別世界があるし、私の場合は新幹線に1時間も乗れば着く東京に違う世界がありました。われわれのような外国ルーツの人たちの強みは、いろんな文化が分かって、それを他の人々に伝えてサポートできるところだと思います。その強みを生かして、将来の夢を持っていただければいいかなと思っています」

 

吉田浩 取材・執筆