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自分のルーツを強みに、自らの可能性を切り開く

〈ファム プロフィール〉
フィリピンの難民キャンプで生まれ、群馬で育ち、高校卒業後はニューヨークで社会福祉学を専攻。現在はキャリアコンサルタントとしての知識を活かしながら、企業・組織における個人のキャリア形成や能力開発の支援・プログラム企画と運営を専門的に行う。趣味は料理と散歩、そしてガーデニング♪ 最近、鎌倉市に引越し新しい働き方・暮らし方を模索中!



外国ルーツの子どもたちにとって、大きな不安の種となっているのが進学や就職の問題。語学力をはじめとする自らの能力だけでなく、住んでいる環境などを理由に、将来の可能性を狭めてしまうケースもしばしば見られます。今回はベトナム難民として来日し、現在は外資系医療機器メーカーに勤務する傍ら、glolabのコーディネータとしても活躍するファムに、自らの体験やキャリア構築に関するアドバイスを聞きしました。



ベトナム難民の両親の下、日本で育つ

― ファムさんはベトナム難民として日本に来たとのことですが、その経緯を教えてください。
両親はもともとベトナム南部のナチャンという町に住んでいて、母が私を身ごもったのが1989年のことでした。ベトナム戦争の終結からは年月が経っていましたが、政情が不安定な環境で子育てをしたくないと母は考えていたようです。

当時、インドシナ難民のボートピープルが日本でも話題になっていたと思いますが、母方の祖父が医師として米軍に従事していたので、そのツテをたどってボートに乗ったそうです。海を漂流していると、たまたまフィリピンの漁船に発見されて、パラワン島の難民キャンプでしばらく暮らすことになり、母はそこで私を出産しました。

その間、両親はいろんな国に難民申請をしていたのですが、しばらく経ってから日本とオーストラリアから難民認定されるという話になりました。母はオーストラリアに行きたがっていましたが、当時、景気の良かった日本のほうが父の仕事があるのではないかという理由で日本に行くことになりました。品川にある国際救援センターに6カ月間滞在し、その後はベトナム人のコミュニティのある群馬県の館林市で暮らすことになりました。

― 赤ちゃんの頃から日本にいたので、言語で困ったり、自分のルーツに悩んだりということはなかったのでしょうか。
似たようなルーツの人と話したことがないので比べられないですが、それなりに葛藤はありました。難民だからというよりは、外国人だからという理由で、周囲から違和感を持って見られていることは感じましたね。名前がカタカナなので、名乗った途端に態度が変わったり、警察官から「なんで日本にいるの?帰りなよ」と心無い言葉を投げられたりしたこともありました。

― 学校でいじめられたり、コミュニケーションが難しかったりといったことはなかったのでしょうか。
物心ついてからは普通に日本語をしゃべれていましたし、からかわれたことはありましたが、幸いにしていじめにあったことはありません。私の性格的なものもあるかと思いますが、上手く馴染んでいたようです。

― 周囲には外国ルーツの子どもはいなかったのですか。
学年に2~3人はいましたね。ブラジル人の方やインド系の子もいたと思います。でも、特に外国人同士だからという理由で仲良くするということはなかったです。

― 家庭ではベトナム語を話し、外では日本語を話す生活だったのでしょうか。
家庭では片言のベトナム語と日本語で話していました。外では日本語ですね。



無国籍であることの不便さ


― 難民で無国籍であったがゆえに苦労したことはありますか。
永住者ですし、日本にいるぶんには苦労したことはないです。税金も普通に払っていれば文句も言われないですし。ただ、日本の外に出たり、緊急事態が起きたりしたときに、国からの助けを期待できないのが実状です。中学2年生の時に市の派遣でオーストラリアに行かせてもらったのですが、自分がパスポートを作れないことをその時初めて知りました。法務省から再入国許可証というパスポート代わりのものをもらうのですが、各国の空港で「これは何?」と質問されることが多かったです。

ニューヨークの大学に行った時も、ビザはあるにもかかわらず税関でさんざん質問されて、日本の政府に確認を取ってOKをもらってやっと入国できました。アラブ首長国連邦に行ったときは一泊だけするつもりでビザを取らなかったのですが、入国を拒否されて別室でしばらく隔離されたこともありました。

― 現在もパスポートは持ってないのでしょうか。
日本人男性と結婚しましたが、まだ帰化申請していないので無国籍状態ですね。夫が日本人なので海外に行っても何かしらのサポートはあると思いますが、海外で何か起きた場合、日本大使館に助けてもらえないような扱いになることが心配です。また、これから子どもを産みたいと思った際に、自分が無国籍であるために子どもが不利益を被るようなことがあっては嫌だなと考えています。



国際貢献ができる仕事を意識して米国に進学


― glolabのサイトで外国ルーツの子どもたちのキャリア構築について助言する動画をアップされていますが、ファムさん自身も将来の進路に悩んだ経験があるのでしょうか。
幼心にも、外国人という形で日本に暮らすのは大変だと日々思っていたので、将来は国際貢献や人助けにつながる仕事がしたいと小学校の高学年くらいから思っていました。先ほど話したとおり、中学2年生で初めてオーストラリアに行ったのですが、日本以外の場所だと全然違う扱いをされることや、違う世界が広がっていくことが分かったんです。日本の高校に通っていた時から英会話も習っていましたし、日本の大学に行く意思は全くありませんでした。とにかく米国や海外で勉強したいという意思を明確に持っていたので、どうやって先生を説得しようかと悩んだ3年間でもありました。

― 日本の大学に行きたくなかった理由は何でしょうか
国際交流の仕事に就きたいという気持ちがありましたし、日本の大学に行くとみんな遊んでしまうと聞いていたので、単純に自分を遊ばせないようにとしたいなと。あとは母が教育熱心だったので、海外の大学でしっかり学んでほしいという無言のプレッシャーを感じていた部分もありますね(笑)。

― 最終的にはコロンビア大学の大学院を修了されたんですよね。
最初はニューヨークのロングアイランド大学という私立大学に通って国際関係学を学んでいましたが、困っている人を支援するための方策をより具体的に学ぶために、 2年生の時にニューヨーク大学に編入して社会福祉学の学士号を取り、コロンビア大学では社会福祉学の修士号を取りました。

― 将来のキャリア像が固まったのはいつごろですか?
正直なところ、今もはっきりとは固まっていないです(笑)。ただ、大学生時代に進路を考えた際、海外で活躍したいと思っても、自分の無国籍という立場が実に不都合だと気付いたんです。それと日本で育ってきたので、人生の軸を作るなら日本にいる難民や移民のためになることしたいと思って、就職活動は日本で行いました。

当時から難民支援協会のボランティアなどはやっていたのですが、そのままNPO団体に就職する気にはならなくて。理由は、ある程度収入を確保して、将来は帰化申請できる状態にしたかったからです。そこで、一般企業の就職先を探して、現在勤めているボストン・サイエンティフィックジャパン株式会社という外資系の医療機器メーカーに入社が決まりました。将来的に福祉や医療の分野で難民や移民支援に関わることを念頭に、医療業界に身を置こうという気持ちもありました。入社してから5年が経ちましたが、私の生い立ちを知っている上司や周囲の同僚には、glolabでの活動を応援してもらっています。



人に関わり社会を変える仕事を

― 日本企業には面接に行かなかったのですか。
農林中央金庫や日本政策投資銀行には行きましたね。お金に興味があったというよりはコロンビア大学でソーシャルワークにおける政策について学び、社会の仕組みを変えることに興味があったので、関連がありそうなところを受けていました。

― ボストン・サイエンティフィックジャパンでは、人事関係の仕事をされていますよね。
最初は営業で内定をいただいたのですが、入社したときに人事の仕事を提案されてOKしました。両親のそばにいたかったので、全国転勤のある営業職より良かったというのと、人に関わる仕事が面白そうだなという思いがあって。

― 難民支援もそうですが、人に関わりたいというのは昔から一貫していたのですか。
小さいころから、たとえば友達の喧嘩を仲裁したり、人が困っていると手を差し伸べたくなったり、問題の渦中にいることが多かったんですね。そうした自分の特長は、今もあると思います。

― 外資系企業だと、日本企業よりはさまざまな国籍やバックグラウンドの方を面接したりする機会が多いと思います。
特に内勤職についてはいろんなバックグラウンドの人たちを採用しています。でも、顧客は日本人の医療従事者なので、数年前までは日本人を採用する傾向が強かったと思います。数年前に経営のミッションとして「ダイバーシティ&インクルージョン」を定めてから、女性を何人採用したかとか、ダイバーシティのあるチーム構成になっているか、といったことをKPIとして追うようになりました。今では国籍や人種関係なくいろんなバックグラウンドを持つ社員が増えてきていて嬉しい限りです。

― 日本の顧客のほうがダイバーシティに付いてこられないようなことはないですか。
世代によっても違うと思います。若手の先生方は比較的オープンマインドな方が多いので、ダイバーシティだけでなく新しいテクノロジーや新しい働き方に対しても前向きです。世代が上の先生方の中には、変化に対応できない方もいらっしゃるようですが、周囲の変化により徐々に変わっていくことを期待しています。



子どもたちのキャリアオーナーシップを育むための支援を

― 人事の仕事に携わってきた経験から、外国ルーツの子どもたちに対してキャリア構築に関するアドバイスはありますか。
外国人であることを障害と捉えてしまうと、自分のキャリアに対してオーナーシップを感じにくいと思います。オーナーシップとは、要するに「自分の人生は自分が決める」という覚悟とそのための行動のことです。海外にルーツを持つ子どもたちは、場合によって経済的な事情や育った家庭や地域の環境から、将来できることを限定して思い込みがちなんではないかと心配しています。

自分で変えられないことはもちろんありますが、視点を変えると変えられることもあります。いろんなチャンスにアンテナを張って、自分ができるところから変化を起こしてほしいと願っています。自分の人生に責任をもって、なりたい姿に向かって決断して行動していくということができる人になってほしいですね。

― 外国ルーツの子どもたちからキャリア相談を受けたことはありますか。
今のところまだないのですが、その機会を今後は増やしたいと思っています。これまでは別の団体でチャリティイベントを企画したり、病院に行くのに付き添ったりという形での支援が多かったのですが、キャリアサポートについてもglolabでの活動を通じて取り組んでいきたいですね。

― 子どもたちの支援を通じて、ファムさん自身が実現したいことは何ですか
私自身は社会の仕組みを変えることに興味を持っていますが、自分一人ではできないことが多いので、仲間を増やしたいと思っています。移民や難民の子どもたちが、これから成長してほかの日本人と一緒に未来を担っていけるかっこいい大人になれるように支援したいです。その一つが、先ほど話したキャリアオーナーシップを持ってもらえるような活動です。

今はキャリア構築支援の動画を作るほか、キャリアコーチングやワークショップを企画したりするのも得意なので、そうした活動を広げていきたいと考えています、自分一人でやるのではなく、私と出会った人たちが次の人たちに伝えていくという良い連鎖を作れるようにしたいですね。

― 目標を達成するにあたって、今の日本が解決しなければいけない問題は何ですか。
たくさんありますが、人々の関心度合いを高めたいです。お金や人が足りないのも事実ですが、まずは関心が高まらないと難しいと思います。社会課題に対して関心を持つ人は増えてきているので、NPO団体や企業といった垣根を越えて、そうした流れを絶やさず、人々を繋げていく取り組みを盛り上げていきたいと思います。

― 日本の教育に対する要望はありますか。
外国ルーツの子どもたちの問題に精いっぱい取り組まれている先生も多いと思うのですが、もっと外部リソースを頼ってもいいのではないかと感じます。それぞれの得意分野を生かして連携していくことで、子どもたちが見捨てられない環境を作ることが大事です。今はまだ、どうしても教育委員会やそれぞれの学校のルールなどが壁になる場面が多く、先生方とわれわれの距離が遠くなっているのも事実です。もっと大きなコミュニティやネットワークの枠組みの中で、子どもたちを支援していける仕組みがあれば良いと考えています。

― 日本の企業に対する要望は何かありますか。
日本語が喋れることが採用や評価の基準になっていたりもしますが、外国にルーツを持つ子どもたちの強みにももっと目を向けて、間口を広げていただきたいです。彼らの中には母国語を喋れる人も多いですし、日本人とは違う視点で物事を考えられる人も多いので、企業にとっても面白い人材になり得ると思っています。日本に魅力を感じて、住み続けている人たちが活躍できる社会づくりに、企業も協力していただければと思います。



吉田浩 取材・執筆