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コンプレックスを前向きに生きるパワーに

まるで物語の伏線を回収するかのように、過去の様々な挫折体験やネガティブな感情が種を蒔き、後の人生で花開くことがあります。中国出身の張赫さんは、両親に対する複雑な感情や出自に対するコンプレックスを、前向きに生きるパワーに転換してきました。外国ルーツだったからこそ見えた問題意識と、彼女の現在の取り組みについて聞きました。

出自を隠したいと思っていた幼少時代

 大阪府に在住する中国出身の張さんは、現在2児の母。地域の国際交流会で外国人代表として講演したり、外国にルーツを持つ人たち向けに親子サロンを企画したりと、充実した日々を送っている。

「親子サロンでは、周囲から孤立している外国ルーツのパパやママたちが楽しみながら交流したり、悩みを話したりすることで、すっきりした気分になってほしい」と、イベントを開いた目的を話す。

自分自身と同じ、外国ルーツの人々に寄り添う活動を続けているのには、幼少時代の様々な経験が影響している。

ハルピンで生まれた張さんは、7歳のころ両親と一緒に新潟県上越市にやってきた。1997年当時、同地域においては外国人自体が珍しく、地方紙の記事になるほどだった。家族の中では張さんが一番日本語に堪能となったため、何かにつけて両親から頼られることが多かったという。

「日本に来たばかりのころから、親のために学校からのお知らせなどを翻訳していました。すごく覚えているのは最初の遠足の時、ランドセルじゃなくてリュックを持っていくとか、おしぼりタオルが必要だとか、日本の遠足独特の持ち物のことがわからなかったんです。でも、近所の同級生の男の子がお父さんと一緒に家に来てくれて、リュックやレジャーシートやおしぼりタオルなどを用意してもらって助かりました。」

日本語力の問題に加えて、工場の派遣社員として働く両親は忙しさもあり、なかなか学校とのやり取りまで手が回らなかった。結果、張さんにほぼ丸投げのような形になり、自分で何でもできるようにはなったものの、小学生では限界がある。忘れ物の多さを注意されることも多かった。

「本来は親がするべきことを自分でやって、いろいろ責任を負わされて苦しかった部分があります。4年生くらいになると周りと違うことが恥ずかしくて、中国出身であることを隠したいと思っていましたね。ちょうどメディアによる中国バッシングが強くなった時期でもあったし、何となく疎外感を感じるようになりました。歴史の授業で中国が出てくるのも嫌でしたし、ストレスで咳が止まらなくなったりもしました。両親には家の外では中国語で話しかけないで!って頼んだこともあります。」

両親のほうも、日本語がままならないことから社会からの疎外感を感じていたようだ。そのストレスが理由なのか、たとえば学校の試験前日に夫婦仲が険悪になったり、その愚痴を母親から聞かされたりもした。両親に対して「もっと自分のことを考えてほしい」という感情が張さんの中で募った。

家庭での立ち位置に対する精神的負担、そして中国出身であることへの負い目のような気持ち。それら複雑な感情を抱きつつ、既に中学時代には親元を離れたいと考えていたと語る。

ボランティアで感じた「ありのままの自分」への肯定感

一方で、両親は教育に関しては熱心だった。将来、外交官になる夢を持っていた張さんは、東京の大学で国際政治を勉強したいと希望していた。そのころ、両親が派遣切りに遭って経済的には厳しい状況にあったが、張さんの進学を後押ししてくれたという。

「実は高校受験の時も上越市から離れた全寮制の私立高校に受かったのですが、親が入学前に仕事を辞めてしまったので諦めたんです。両親にはその負い目もあったので、大学こそは行かせたいという気持ちがあったんじゃないかと思います。」

親元を離れたいと思いながらも、頑張ってくれた両親には感謝の気持ちを抱いていると張さんは話す。希望していた国際政治の学部には受からなかったものの、無事に東京の大学で法律を学ぶことになった。

この時期から将来や人生に対する考え方が大きく変わっていく。最も影響したのは、外国ルーツの子どもたちを支援する多文化共生センター東京でのボランティア活動だった。そこで中国出身の子どもたちの相談に乗ったり、勉強を教えたりするうちに意識が変わっていった。

「親元を離れてから中国語を話す機会がなくて、正直なところ話したいと思っていたんです。それでボランティアに参加して、自分の中国語が誰かの助けになると気づきました。私みたいになりたいと言ってくれる子もいて、自分もその子を激励したりするうちに居場所ができた感覚でした。」

世話をしていたのは主に中学生以降に来日した子どもたちで、幼少時代から日本で育った張さんとは境遇が違った。だが、大学生の張さんとは年齢がさほど離れていなかったこともあり、友人のような感覚で楽しみながら接していたという。そのうちに、かつて抱いていた中国出身であることへの負の感情は消え、ポジティブな方向に向かっていった。ただそれは「中国人として」ではなく「ありのままの自分」に対する有用感のようなものだったと張さんは話す。

「どんなに否定しようとしても、中国出身という部分は自分から外すことはできません。そのありのままの姿が初めて周りから受け入れられた経験だったと思います。」

ちなみに、現在の配偶者とも多文化共生センター東京でのボランティア活動を通じて知り会ったという。張さんにとって、あらゆる意味で人生の転機となったのがこの時期だった。

大学生時代にもう1つ印象に残った出来事が、東日本大震災の直後に参加した多言語支援センターでのボランティアだ。日本語のニュースをすぐに理解できない外国人向けに、翻訳記事をSNSで発信していく業務に携わり、多忙な日々を送った。震災後、何かに突き動かされるように本部のある滋賀県に向かい、他のボランティアが数日で居なくなる中、一か月近く滞在したという。

「大学が休講になってアルバイトも休みになったので、やることがなくなってしまったんですね。非常時だから何かやらなきゃ、という気持ちになったときにボランティア募集を見つけたので、これは私が行くしかないと。住む場所もお金のことも何も考えずに、本当に使命感だけでした。でも、食事は本部近くのパン屋で買い物したり、差し入れなどだったりしたせいか、体調を崩して突発性難聴にかかってしまいました。東京に来た時には掛からなかったホームシックにもなってしまいました。」と、かなり過酷な環境だったようだ。

その中でも活動仲間と京都へ桜を見に行ったり、活動仲間の家に泊まらせてもらって手料理を食べたり、楽しいこともあったので続けられた。

孤立する親を助けることで子どもも救う

 将来について真剣に考えだしたのは、就職活動が始まる大学3年生のころだ。外交官になる夢は既に消えていたが、中国語や得意の英語を活かせる職業に就きたいという思いはあった。

「大学に入ってからは自由にいろんなことができたので、将来のことをあまり考えていたわけではないですが、在学中に中国語検定準一級を取ったり、ビジネス実務法務検定を受けたりはしていました。商社など何社か受けて、最終的に千葉にあるメーカーで海外市場開拓を含む営業職で採用されました。」

 語学力を活かしたいという希望はすぐに叶った。担当を任された国際展示会では外国人を相手に中国語と英語を駆使して商品説明などを行い、職場での評価も高まった。中国の広州や上海に出張する機会もあり、多忙ではあったが充実した日々を送った。残業続きで疲れが溜まり、寝坊して飛行機に乗り遅れそうになったこともあったが、海外出張の楽しさをエネルギーに変えて頑張れたという。

 その後、結婚を機に退職し、現在は冒頭紹介したように大阪で外国ルーツの人々を支援する活動に従事している。外国にルーツを持つ父親や母親を支援しようと思ったのは、かつて自分の両親が苦しんできた姿を見てきたことが大きい。


張さんと家族の皆さん

 「私が子供の頃、母が言葉の問題もあり、なかなか周囲と打ち解けなかったことから孤立して、いわゆるママ友もいなくて、夫婦関係も悪かったので、その気持ちを私にぶつけられて依存されて苦しかったので、同じような問題を何とかしたいなと。昔の母親みたいな人たちを助けるということは、自分のような子を助けることにもつながります。親同士が繋がることができれば、不満が子どもに向きにくくなるのではないでしょうか。」

 最近は新型コロナウイルスの影響で、ますます他者との繋がりが持ちにくくなっている。日本語力に制限があったり、外国人の見た目から、いわゆるママ友ができにくかったりするなど、外国ルーツの親たちにとっては、精神的な安定を保つのが難しい状況と言える。親子サロンを企画した背景には、そんな状況を打ち破りたいという願いがある。

 イベントの企画にあたっては、東日本大震災多言語支援センター時代のボランティア仲間が協力してくれたという。仮に、張さんが幼少時代と同じく親子関係や自身の出自にネガティブな感情を抱いたまま大人になったとしたら、こうした人々との出会いは訪れなかっただろう。

 かつては苦しんだ両親との関係や外国ルーツであることに起因する疎外感があったからこそ、結果的に自らの価値に気付き、問題意識を持ち、仲間たちと出会えたとも言える。張さんの経験には、同じような状況に悩む若者たちにとって、人生を切り拓くためのヒントが詰まっている。

吉田浩 取材・執筆